Diary

第六話:タイムスリップの技【田中のにんまり日常茶飯事】

学校の校外施設が、栃木県日光市にありました。東照宮や華厳の滝、戦場ヶ原と観光スポットも訪れましたが、私にとって日光といえばその山荘、です。
現在の家に引っ越して初めての出勤時(栃木ではありません)、早朝家を出て、驚きました。そこに、日光を感じたからです。
山荘でラジオ体操に向かう朝と同じ”匂い”。冷たくキリっと澄んだ空気に寒い寒いと皆で笑った思い出が、家を出たその瞬間、1秒と経たないうちに蘇りました。むしろ、日光にいるかとさえ思いました(あくまで一瞬とはいえ、冗談ぬき)。
目と鼻の先にある川や緑地のおかげで朝露にぬれた草木の香りが濃く、うーん、表現するのは難しいけれど、ドンピシャ、あの時の匂いがするのです。
嗅覚が思い出に直球でリンクするあのスピード感って、ほんと、スゴイ。よく聞くのはやはり、かつての恋人の香り、でしょうか。ベビーオイルの優しい香りで幼少期を思い出す、なども頷けます。不思議に思うと同時に、ちょっと、ワクワクもします。嗅覚に敏感であればあるほど、過去に帰って思い出を辿るチャンスが増えそうな気がするからです。今のこの生活をやがて思い出せる匂いもきっとあるはずで、まだその時が来ていなくても、なんとなく、今が愛おしく感じられたりしませんか。
すこし前、春先のことです。いつも通りせかせかと歩いていて、ふと、亡き祖母を感じました。どこからか漂う沈丁花の甘い香りのおかげです。言葉という言葉もそう話さぬせいぜい1、2歳の私をしょっちゅう散歩に連れ出してくれた祖母は、俳句や茶道に長年親しんだこともあり、花に詳しい人。知らない草花なんて無いのでは?と思うほどの、お花博士、でした。

散歩道には、脇にたんぽぽの揺れる踏切があったような覚えがあります。かろうじて残っている記憶はそのくらいでも、沈丁花にピンと来てから更にたぐり寄せると、当時の祖母の口ぶりまでもが思い出されるようでした。
勝手な想像もあるでしょうが、「いいかおりがするでしょう。ひろちゃん、これはね、じんちょうげ、っていうのよ。」なんて、言ってたのだろうと思います。
こうして匂いで過去を旅できると思うとワクワクもしますが、最近は街もデオドラント傾向にある気がしませんか。なんだかちょっと、面白くない。「この先にお肉屋さんがあるな」とわかる揚げ物の匂い、古びた本屋さんの湿っぽい紙の匂い、クリーニング店の清潔感ある匂い…少し前まで溢れていたはずが…近頃匂いが薄いように思います。
もちろん”におわなくて”助かることもあるので感謝はしながらですが、デオドラント時代だからこそちょっと意識的に、香りを感じて過ごしてみたいなと思います。お蕎麦屋さんの前を通るのさえ、くり返される毎日の、ちょっとした楽しみになるかもしれない。またそれが、タイムスリップのきっかけにもなるかもしれないですからね。

【写真・文章】田中 弘美

田中 弘美

151画 web storeの企画や運営、プライベートフォトサービスのコーディネーターをしています。生まれも育ちも東京都ですが都会の喧騒はあまり得意ではなく、緑の中での深呼吸やのどかな街の散歩、飼い猫をのんびり撫でるひとときが癒しです。